朱(あけ)に染まる

常守朱という女は色気のない香水をつけている。まるでティーン・エイジャーが好みそうなあまったるい菓子のような香りである。ようするに子供っぽいのである。
 狡噛はこのにおいがなかなかどうして好きにはなれなかった。香水は、彼女の動きに伴って、僅かに香りが纏う程度であったことだけが幸いであった。こんなもの高い濃度で吸わされたら、煙草の味が分からなくなってしまうではないか――鼻をすんすんと鳴らし、煙草に火をつけながら狡噛は思う。
 だいたい“職場”にそんな甘ったるい香りを持ち込まれることが気に入らんというのに、それに加えて色気のかけらも無いと来たら、最早狡噛の眉間に皺を増やすばかりである。
 しかしながら仕事柄、しなを作るようなふるまいと、売春婦のようなにおいをぷんぷん漂わせられても困る事はあきらかだ。いや、だが、いくらなんでもあれはないだろう。見た目からして子供のようだし、なによりも『飼い主』らしくない。成人した女のそれではない。弥生のほうがそれらしく見えるというものである。
 二本目の煙草に火をともす。狡噛はここのところ鼻の調子が悪い。紫煙の心地よいビターな香りにのって、あの『いけすかない甘ったるいにおい』が鼻腔を刺激するのだ。実によくない。
 (どうせすぐに血腥くなってしまうのになあ)細胞を犯す煙で肺を満たし、それから気だるげにため息をつく。口内から漏れた紫煙を燻らせていると、公安のジャケットを着込んだ小柄な『飼い主』がおずおずと狡噛の元へ寄ってくる。

「狡噛さん、行きましょう」

 手にはドミネーターを携えて。 あれは首輪だ。執行官達に対する頑丈な首輪なのだ。こんな小さな女でも猟犬たちを制御するための。

 ドブ臭い街の人混みの中、狡噛はするりするりと何ともなしにそれを通り抜けてゆく。朱は若干もたつきながら、狡噛の二歩ほど後ろをついて歩いている。これではどちらが飼い主か分かったものではない……狡噛がひとりごちて、それからしばらくもたたないうちに、ようやく朱は狡噛の隣に追い付いた。

「目標はどこまで人混みに紛れて逃げるつもりなんでしょう」
「俺達から逃げ切るまでだろう。……それも長くは持たない、人の往来が減ったら一気に“囲む”」
「はい」

 頷いた朱の髪がふわりと揺れる。あの甘ったるいかおりだ。早く終わらせて煙草を吸いたい気分だった。

 処理犯がてきぱきと飛び散った肉片を処理する中、朱は汚いトタン壁に背を預け、摩天楼ばかりが占める狭い空を、ぼんやりと眺めていた。狡噛はその横でジッポライターをカチカチと鳴らし、一仕事終えた後の一服を満喫していた。

「なかなか慣れないですね、血のにおいって」
「じきに慣れる」
「そうですよね。……狡噛さん、私、血のにおい、しませんよね?」
「……しない。安心しろ」

 自分よりよっぽど、と付け加えることはしなかった。狡噛のコートの裾は返り血でべったりと汚れていたし、朱のパンプスも赤黒く染まっていた。因果な職業である。コートをクリーニングに出すべきか、新調すべきか、どちらにしろ億劫だなと狡噛は思った。
 (……そういえば。)配属日の事件ではあのかおりをさせていなかったことを、狡噛は思い出していた。だとすればあの甘ったるいかおりは、血と死のにおいから逃れる為の彼女のあがきなのかもしれない。
 血のにおいよりパンプスの汚れを気にするようになったとき、朱は香水をつけることをやめるだろう。狡噛はなんとなく、そう確信していた。

2012-10-15 22:24