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……卯月、もう寝てしまったかな?ああ、まだ起きていたね。いや、なに、そんな目で見るなよ。今はおまえを抱く気分じゃないから安心するといい。ただ、横になっているおまえを見ていたら話をしたくてね。少しでいいから聞いてくれないか。さあ、こちらへおいで。何もしないさ。本当だよ。
さて、どこから話したらいいのか……。ああ、いつだったか、おまえは僕の初恋の相手に似ているという話をしたろう。僕は実は、昔あまり女に興味がない子どもでね。まあ、昔体があまり強くなかった加減でよその子どもと関わり合いが少なかったこともあって、十五になってもいまだ初恋を知らなかったんだよ。どのみち父親から充てがわれたどこかの令嬢と結婚することになるのだから、そんなものは不要だと思っていた。通っていた学校も男子校だったからね。あいにく男を好きになる気配もなく、ただぼんやりと日々を過ごしていた。
だがある時期、父と母の仲が険悪になった事があってね。不倫しただのしていないだの、そういったくだらない揉め事ではあったんだが、日増しに激しくなる口論に僕は我慢できなくなった。僕の住んでいた家は、言っちゃなんだが、まあ普通の家よりなんかはそこそこ大きいんだ。だから父と母が揉める声からは逃げやすくはあったんだが、それでも僅かに漏れ聞こえてくる怒声に僕は疲れてしまっていた。
そしてとうとう学校から帰宅中、ふと家に帰りたくないなという気持ちに襲われてしまった。僕は踵を返して家と反対方向に歩いた。目的地なんて無かったが、兎に角家に帰りたくなかった。家から逃げられたらそれでよかったんだ。逃げたい。あの家に帰りたくない。逃げ場所が兎に角欲しかった。
十何分か歩くうち、気がつくと僕は鎮守の森の神社に辿り着いていた。昔処刑場があった場所に植林し作られた森らしい……と言うことを祖父から聞かされていたから、少したじろいでしまったが、丁度人もあまり寄り付かない場所だったからね。少し頭を冷やして落ち着こうと思い境内に立ち入ったんだ。
境内は静かだった。僕は手水舎で手を洗い、ハンカチに水を含ませ絞り、それで額を冷やした。丁度今くらいの、初夏の時期だったから、それがたまらなく気持ちよかった。そばのベンチに腰を下ろして、冷やしたハンカチの気持ちよさを感じながら、僕はしばらく、日が暮れていく空を眺めていた。
「……お兄ちゃん、だあれ?」
それは不意の声だった。見れば、おかっぱ頭の小さな女の子が縄跳びを持って、僕を見つめていたんだ。小学校低学年くらいの――うん、卯月、君より少しだけ年上のように見えた。彼女は少し怯えていたようだったよ。僕は一瞬呆けてしまったが、次の瞬間にはもう微笑みを作って彼女に挨拶をした。
「こんにちは。君こそ誰?こんなところで一人きりで何をしているの」
「わたし、ゴウダハルコ。縄跳びの練習してたの」
彼女――ハルコはそう言って、目の前で縄を回して何度か飛んで見せた。その動きはとてもぎこちないもので、ああこれは確かに練習がいるなと僕は苦笑した。卯月、おまえも縄跳びは苦手だったろう。似ているんだ、そういう鈍くさいところが。
「そう、練習。えらいね。けれどこんな所に一人きりで練習はよくないよ。最近は、変なやつも多いから。お父さんもお母さんも心配するよ」
「ううん、いいの。ハルコ、お父さんのこと知らないし、お母さんはお仕事でおうちに居ないから」
ハルコは僕の隣に座って、小さくくしゃみをした。鼻を鳴らすハルコを見ていられなくなった僕は、もう一枚鞄からハンカチを取り出して、これで鼻をかめと彼女にくれてやった。
「ありがとお、お兄ちゃん」
ハルコは嬉しそうにしていたよ。……そのときまだ僕は、ハルコを純粋に可愛いと思っていた。ああ、僕に妹がいたならば、きっとこんな風なんだろうと。
それから僕は夕暮れ時に、鎮守の森の神社でハルコの縄跳びの練習に付き合うようになった。ハルコは進みが遅い子供だったが、それでも毎日続けるうち、少しずつうまく跳べるようになっていった。彼女は先生に褒められるようになったこと、努力するうち自分を認めてくれる同級生が増えたこと、そんなとこを嬉しそうに僕に語って聞かせた。良い子なんだと思ったよ。
ハルコの父親は彼女が生まれてすぐに蒸発したらしく、それから母と二人で彼女は生きてきたそうだ。彼女の母親は昼は事務員、夜はスナックで酔っ払いの相手をし、そして時折、融通してもらった内職をハルコと二人でやって生活していたんだと言う。
今よりも厳しい時代だ。女が一人で子供を養っていくのは想像以上の苦労があっただろうし、僕はきっと、ハルコもさぞ寂しかっただろうと思った。思わずそれが口からこぼれてしまった。「一人で家にいるのは寂しくないのかい」と。するとハルコは目を丸くして驚いた後、首を大きく横に振ったんだ。
「ううん、ハルコ、おうちには一人だけど、隣のおねえちゃんも、大家のおじちゃんおばちゃんも優しくしてくれるから、ちっとも寂しくないよ」
彼女は貧しかったが、人には恵まれていたということなんだろう。僕とはまるで真逆だったんだ、ハルコは。僕は生まれてこの方金に困ったことなどなかったけれど、ただ、僕のことを本気で想ってくれる暖かい存在なんてほとんどいなかったんだよ。僕は次男坊だったし、居ても居なくてもいい存在だったからね。
どうしたんだ、卯月。そんな悲しそうな顔をして。もしかして僕を憐れんでいるのか?お前は優しい子だね。そういうところもハルコによく似ている。いいんだ、もう、そんな事は気にしていないから。
……だが昔の僕は、そんなハルコを少し羨ましく思っていた。無い物ねだりというやつだよ。ハルコや彼女の母親からすれば、金のある生活のほうがうんと羨ましかったかもしれない。だがそれでも愛されて育つハルコを羨ましく思ったし、そして彼女がこれからも愛されて育っていけばいいと、僕はそう思った。そして僕も、そういった意味で彼女を愛していく存在になれたらと……思ったんだ。彼女を慈しみ見守っていけるような存在に。
気がつけば日はかなり落ちていた。風に吹かれたハルコは小さくくしゃみをして、えへへと笑った。夜風はまだ冷える時期だった。僕も帰らなければ。
「じゃあね、お兄ちゃん。またあしたあそんでね」
「ああ、……じゃあね、ハルコ。また明日」
手を振り去っていくハルコの背中がどんどん小さくなっていくのを見届けて、僕もため息混じりに腰を上げた。家には相変わらず帰りたくはなかったが、明日また、彼女と会えるのだと思えば、ましなような気がしたんだ。
そういえば父親が少し前に金平糖を土産に買ってきていたな。誰も手をつけていなかったはずだから、あしたハルコにくれてやろうか……。そんな事を考えながら帰るのはなかなか気分がよかった。きっとハルコは喜ぶだろうと彼女の笑顔を思い浮かべながら、明日も明後日も明々後日も、こんな日が続くのだろうと、……僕は本気で思っていたんだ。本人が望もうが望むまいが、そんなものはあっけなく簡単に壊れてしまうというのに。
翌日も僕は放課後、ハルコと会うために神社へと行った。瓶入りの金平糖を鞄に忍ばせてね。
ところがその日は、普段鳥居をくぐる頃には聞こえていたハルコの縄跳びをする音が聞こえてこなかった。おかしいなと思いながら階段を登ると、やはりハルコがいない。昨日くしゃみをしていたから風邪でもひいてしまったのか、あるいは友達とでも遊んでいるのか。どのみちすぐに家に帰るつもりはなかったからね、僕は持ち歩いていた本を開いて、少し待ってみる事にした。
本を5ページほど捲ったころ、僕は社の方から妙な声がした気がして、ふと顔を上げたんだ。耳を澄ませてみると、鳥の鳴き声、あるいは猫かなにか……のような、か細い声が聞こえている。何がどうという訳ではなかったんだが、なんとなく嫌な予感がしていた。最近おかしなやつが出るという話を聞いていたからなおさらにね。
僕はなるべく足音を立てぬように、慎重に社の裏手へと忍び寄った。鳴き声が少しずつ大きくなっていく。……いや、これは動物の鳴き声なんかじゃない。これはもしかしたら、人間の声じゃないか。それも、幼い子供の………………。
アッ、と声が出そうになった。社の柱の陰に、ハルコがいつも使っていた縄跳びが落ちていたのを見つけてしまったから。僕はあわてて口を塞いで、すぐさま身を隠した。その縄跳びの先、ほんの数メートルのところで、何かが動いていたような気がした。心臓がバクバクして、背中にはいやな汗が大量に伝い、額はびっしょりと濡れて、けれどそんな状態でも耳だけはしっかりと働いていた。容赦なく脳にその声を叩き込んでくる。
「う、ううーっ、う、うっ、う、ううう、いたい、やだあ」
信じたくなかった。けれどほとんど毎日聞いていたその声を聞き間違えるはすがない。ハルコの声だった。
ハルコが、なにか、酷い目に合わされている。
僕は咄嗟に、逃げなければと思った。薄情だろう。けれど怖かったんだ。一体何が起きているのか、理解したくなかったからね。けれど逃げ出そうにも足が動かなかった。どうしたらいい。どうしたら……。
……よせばいいのに、僕は物陰から少しだけ顔を出して、声のする方向を見た。もしかしたら、ハルコじゃあないかもしれない。そもそも思い過ごしで、そこにいるのは人間などではないかもしれない。そんな期待と、そして、……半分は好奇心だった。
丁度木の陰になる場所に『それ』はいた。『それ』ははじめ、大きな犬か、あるいは小熊のように見えた。だがそれが男だと分かったのは、『それ』に組み敷かれた小さな足がばたついているのが見えたからだった。あたりには子どもの下着、スカート、そして靴が散乱していた。覚えのある靴だった。
男は手を振り下ろし彼女の顔を叩いた。そしてぼそぼそと何かを囁く。おそらく、「騒ぐと殺す」というようなことを言ったのだと思う。彼女の呻きは小さくなったが、泣きじゃくる声だけは止むことがなかった。
四つん這いにさせられた彼女の中に、男が局部を突き入れるのが見えて、その後彼女は揺さぶられるように激しく腰を打ち付けられ犯された。目を反らしたかったが出来なかった。何かに取り憑かれたかのように、僕は男に犯される彼女――ハルコの姿に釘付けになっていたんだ。ハルコの股ぐらからは赤い体液がいくつも筋を作り垂れていて、僕は思わず生唾を飲んだ。風に揺れて擦れた木々のざわめきの中で、わずかに聞こえてくるハルコの嗚咽が、僕の鼓膜にちりちりと焼き付くようだった。心臓の高鳴りは少しも収まらない。喉の乾きも忘れ、僕はそのおぞましい光景に魅入っていた。
……こんなにも感情を揺さぶられたのは初めてだった。あそこで行われていることは、決して肯定されてはならない行為なのだろう。けれど僕はこの感情の昂ぶりを、嫌なものだとは思えなかった。
僕はあのハルコを、どこの誰なのかも分からない男に処女を奪われ陵辱され続ける彼女を、はじめて性愛を伴った感情で「愛おしい」と感じたんだ。そして美しいとも思った。あんなにも小さな体で酷い仕打ちを受け続ける彼女が、美しく愛おしかった。
僕は無意識にスラックスに手を突っ込み自慰をしていた。思えばあれがはじめてやった自慰だったかもしれない。いままで性欲などあまり湧いたことがなかったし、同級生のそういった話も付き合い程度で、あとは適当に流していたしね。だが僕はそのとき、間違いなく性的に興奮していた。ともすればあの男に羨ましさすら感じていたんだよ。あの男のように、僕もハルコを犯したいと思った。ハルコを突く男の腰の動きが早くなっていくのを見て、僕も自分のモノをしごく手を早めていって、そして射精した。
それが僕の初恋だよ。僕は男に陵辱される女の子に恋をしたんだ。それから女を抱く事は何度かあったけれど、どれもこれも僕の心を満たしてくれるものではなかった。なにしろ僕の年代に見合った女達ばかりだったからね。強烈な体験から得た恋心を、そんな年齢の女達が満たせる訳などないんだ。
そう、卯月、つまりお前はハルコの代わりなんだよ。どうだい、僕のことを嫌いになっただろう?ああ、いや、いいんだ。答えてくれなくても。お前が僕を嫌っていようがいまいが、あまり関係のないことなのだから。
……ん、理由?この話の?ああ、そうだな、うん、本当に思いつきなんだよ。……だが強いていうなら、ハルコの命日が近かったからかもしれない。そう、死んだんだ、ハルコは。あの男に殺されたんじゃない。母親の手で殺されたんだ。
卑怯者の僕は通報する事無く逃げ出したんだが、その後たまたま掃除に来た近所の老人が通報して男は逮捕されたらしい。ハルコの家の近所に住む浪人生の男だったそうだ。
その後助け出されたハルコは、命は取られなかったが心が壊れてしまった。一度だけ病院に行ったことがあるんだが、当然面会はできなかった。ただハルコの母親とだけは会えた。彼女は僕に頭を下げ、「ハルコがいつもあなたの事を話してくれました。遊んでくれてありがとう」と言った。細く小柄な女だった。
その次の日の事だったよ、ハルコを連れて彼女が病院の屋上から飛んだのは。胸が傷まなかったといえば嘘になる。だが僕は、それ以上にあの体験が忘れられなかった。あの、鼓膜と脳に擦り込まれるような声と音が、彼女が死んだという現実よりも、強く僕の中には残りつづけたんだ。
僕がお前にどういう気持ちを持っているか、これで分かっただろう。いいんだ、嫌ってくれ。だがそれはどうか口に出さないで、お前の中に仕舞っておいてくれないか。僕はね、お前が僕を捨てる日を待っているんだよ。そしてその日がいつか必ずやって来ると確信している。言ったろう、お前が僕を嫌っていようがいまいが関係のないと。そう、嫌っていようがいまいが、お前は僕をいつか捨てるんだ。
その時僕はようやく赦される。罪悪感という邪魔にしかならないものからね。
ああ、随分と話し込んでしまった。よく付き合ってくれたね。眠いだろう。僕も眠い。朝目覚めたら、お前は今日の話を夢だとでも思うだろう。それでいいんだ。こんなものは所詮、ただのくだらない昔話にすぎないのだから。