イノセントブラックの獣

 訓練校時代、制圧術の教官に投げ飛ばされたことは幾度もあった。それに倣い朱も制圧術を身に付けた。が、こうもしなやかに筋肉を使い、美しい形でヒトを投げ飛ばす人間を、朱は初めて見た。相手の力を最大限に、かつ自身の力は最小限に用い、なにひとつ無駄な動きはなく。あっという間だった。狡噛の制圧は。
 派手な音を立てコンクリートに叩きつけられた男に、狡噛は間髪入れずドミネーターを抜き、トリガーを引く。ひときわ大きく跳ねたのち、男は動かなくなった。唇には泡があふれ、白目をむいていた。目蓋がわずかにピクピクと痙攣を繰り返している。朱がドミネーターを抜く間もなくあっさりと解決してしまった。

「、はー……」
「……どうした」
「あ、いえ、す、すみません。宜野座さんに報告します」

 あれは征陸だったか、誰だったか、以前、「狡噛はストイックなまでに体を鍛えていて、そのくせ、それをひけらかすようなことも一切しないから、あれはもう仕事をするために生まれたようなものだ」というような内容を話していた事を、朱は思い出していた。
 宜野座や縢が細いぶんカッチリとした体形には見える。しかしながらスーツに包まれた「ストイック」は普段伺い知る事はできない。
 彼の過去に起因する事柄なのだろうなと朱は思った。狡噛だけではなく、彼ら執行官は、それぞれそれなりに厄介な過去を抱えていることだろう。そしてそれは、安易に干渉できることではない。誰だって触れられたくない部分を持っている。

「ちょっと羨ましいです。狡噛さんは強い。」

 失神した男を後ろ手に掴み上げながら煙草をふかす狡噛は、朱の言葉に目線をちらりと遣ったのみだった。あとはさも興味がなさそうに、朱のほうを見向きもしなかった。

「私も頑張らなきゃ」
「あんたは俺達に首輪をかけておくだけでいい。そう気負うなよ」
「……でも私も公安局の人間ですから」
「……まああんたがそうしたい、強くなりたいって言うなら好きにすればいい。あんたもお節介はとっつぁんだけで十分だろ」
「そんな、お節介だなんて私思ってません」
「あんたに飼い主として自覚がないうちはそうかもな。まあでも……お節介を聞き入れるのも程々にしておけよ」

 それってどういう意味ですか、と朱が言葉を漏らすその瞬間。落としたシケモクを踏み潰して、狡噛はけもののような鋭い眼光でもって、朱を見据えていた。

「他人事だと思ってないよな、サイコハザード。気を抜くと俺達と同じ色に濁るぞ。それもあっと言う間に」

 あのとき、狡噛が、誘拐されたのち強姦された被害者の女性に、シビュラの思し召しだからとドミネーターを向けたとき。自分とは違う人間なのだと理解したとき。充分に承知したはずだったことを、朱は忘れてしまっていた。
 彼らに飲まれてはならない。宜野座のような冷酷さで自身を確立しなければならない。

「……すみません」
「謝るなよ。こっちが悪い事をしたみたいだろ。あんたはもっと堂々としていればいい」

 小馬鹿にしたような、含みのある表情で、狡噛は口角を僅かにつり上げる。先程のするどさは、そこにはもう無い。色相が濁った獣にもこんな表情が出来るのかと、朱はそれがなんだかおかしくて、笑った。

2012-10-18 01:37